クリストファー・ノーラン監督の映画『オデッセイ』が、世界興行収入11億ドル(約1749億円)を突破し、同監督作品の最高記録を更新した。本作に大きな影響を与えた翻訳家から酷評された一方、観客動員は異例の持続力を示している。本稿では、ホメロスの叙事詩を、戦闘を経験した帰還兵が社会へ戻る際の困難と重ねて読んだ精神科医ジョナサン・シェイの研究を手掛かりに、ノーラン版『オデッセイ』が観客を引きつける理由を読み解いていく。■翻訳家の酷評と観客の熱狂クリストファー・ノーラン監督によるホメロスの叙事詩『オデッセイ』の映画化作品は、2026年8月8日から10日の週末に世界興行収入11億ドル(約1749億円、1ドル=159円換算)を突破した。『ダークナイト ライジング』を抜き、ノーラン監督作品として過去最高の興行収入を記録したほか、IMAXの興行収入は2億8930万ドル(約460億円)に達した。2009年公開の『アバター』を上回り、IMAX史上最高記録を樹立したことになる。また、R指定映画としても、2024年の『デッドプール&ウルヴァリン』に次ぐ映画史上2位の興行収入となった。この記録は、8月14日に約800のIMAXスクリーンで公開される中国と、9月に公開予定の日本で、まだチケットが1枚も販売されていない段階で達成された。ノーラン監督が本作の主要な着想源として挙げた2017年版『オデッセイ』英訳の訳者で、ペンシルベニア大学の古典学者でもあるエミリー・ウィルソンは、7月下旬にLondon Review of Books(LRB)で約4000語の辛辣な批評を発表した。ウィルソンは脚本を「ひどい出来」と評し、「この脚本のどの部分であれ、自分が書いたものなら恥ずかしく思うだろう」と述べた。アクセスが殺到したLRBのウェブサイトは、一時的にダウンしたという。しかし観客は、公開第4週末となる翌週末にも、さらに1億1000万ドル(約175億円)分のチケットを購入した。『スパイダーマン:ブランニュー・デイ』にIMAXでの独占上映枠を譲ったにもかかわらず、北米興行収入の前週比下落率は50%未満にとどまった。その後、ウィルソンはThe Atlanticへの寄稿で、本作を「感情的に空虚だ」と評している。ウィルソンの評価と観客の行動の隔たりは、マーケティングや映像的なスペクタクルだけでは説明しきれない。その理由を考える手掛かりとなるのが、精神科医ジョナサン・シェイが2002年に出版した『Odysseus in America: Combat Trauma and the Trials of Homecoming』である。シェイは『オデッセイ』を、戦争から戻った兵士が市民生活へ再適応する際の障害と回復を描いた作品として読んだ。ノーランの映画にも、その解釈と重なる構造を見ることができる。一方、ウィルソンは本作を文学作品の翻案として評価した。この視点の違いが、映画に対する両者の評価を大きく隔てている。■シェイが『オデッセイ』に見いだした帰還兵の経験ジョナサン・シェイは、ボストンの退役軍人省外来クリニックでベトナム帰還兵の治療に15年間携わった後、『Achilles in Vietnam』(1994年)、続いて『Odysseus in America』(2002年)を出版した。後者における中心的な主張は、ホメロスの叙事詩を単なる冒険物語としてではなく、戦争から戻った兵士が市民生活への復帰に失敗し、その後、部分的に再適応していく姿を表した作品としても読めるというものだ。シェイは、ベトナム帰還兵の臨床経験と『オデッセイ』を対比し、危険を求める行動、突発的な暴力、薬物やアルコールの乱用、不信、感情や考えを隠そうとする傾向などに共通点を見いだした。こうした行動を、戦闘によるトラウマと、帰還後に社会や家庭へ再適応することの難しさを表すものとして読み解いたのである。この視点に立つと、オデュッセウスの狡猾さや警戒心は、英雄としての能力であるだけでなく、戦争から生還した人物が身に付けた自己防衛とも読める。長い旅の核心も、故郷へたどり着くことだけではなく、家族を再び信頼し、自らが家庭の一員であることを取り戻せるかという問題へ移っていく。■モラル・インジュアリーが与える物語の重みノーラン版のオデュッセウス(マット・デイモン)を読み解くもう一つの鍵が、「モラル・インジュアリー(道徳的損傷)」である。これは、自らが深く信じる道徳や価値観に反する行為を行ったり、目撃したり、阻止できなかったりした経験の後に残る心理的、社会的な苦痛を表す概念だ。罪悪感や恥、怒り、自分を許せない感覚などを伴うことがある。モラル・インジュアリーはPTSDと重なる部分を持つが、同じ概念ではない。ノーランの映画では、この概念がオデュッセウスの罪悪感や否定的な自己認識を読み解く視点になる。複数の批評によると、映画の核心は、オデュッセウスがなぜ自らの「英雄的」行為を忘れたがっていたのかと向き合う場面にある。物乞いに変装して妻ペネロペ(アン・ハサウェイ)と話す際、彼は「もし、あなたが知っていたオデュッセウスが道を踏み外していたとしたら?」と問いかける。クレイトン大学の心理学者エイミー・S・バドゥラ=ブラックは、The Conversationに掲載された映画分析で、このセリフは、臨床現場で帰還兵から聞いた「本当の私を知ったら、あなたは私を愛してくれないだろう」という言葉と構造的に同じだと指摘している。それは単なる悲しみや後悔ではない。戦時中の自らの行為を繰り返し問い直す中で生まれた、自己に対する道徳的な判断である。この場面でオデュッセウスが求めているのは、英雄として称賛されることではない。自分が何をしてきたかを知ったうえで、それでも家族に受け入れてもらえるかを確かめようとしている。シェイの研究を手掛かりにすると、この問いが帰還の物語に与える重みが鮮明になる。■ロトスと揺れ動く記憶ノーランの映画では、『オデッセイ』の超自然的なエピソードであるキュクロプス、キルケによる変身、セイレーンなどが、ロトスの作用で意識がかすんだオデュッセウスが、カリュプソ(シャーリーズ・セロン)に語る物語として描かれる。この構成は、記憶が固定されたまま保存されるのではなく、思い出すたびに変化し得るという考え方を連想させる。こうした記憶の働きを考える手掛かりの一つが、神経科学における「記憶の再固定化」である。一度保存された記憶も、想起されると一時的に不安定な状態へ戻り、その後に再び安定化すると考えられている。Nader、Schafe、LeDouxが2000年にNature誌で発表した研究では、ラットの条件づけられた恐怖記憶を再活性化した後、扁桃体へタンパク質合成阻害薬を投与すると、その後の恐怖反応が損なわれた。再活性化された恐怖記憶が、再び安定するために新たなタンパク質合成を必要とすることを示した研究である。映画のロトスが、こうした神経科学上の仕組みをそのまま再現しているわけではない。それでも、意識がかすんだ状態で過去を繰り返し語るオデュッセウスの姿は、記憶が想起のたびに再構成され得るという現代的な記憶観と響き合う。その語りが現実の出来事なのか、後から形を変えた記憶なのか、あるいは耐え難い経験を語るために生み出された神話なのかは明示されない。この曖昧さは、オデュッセウスを嘘つきか真実の語り手かという二択から解放し、トラウマを抱えた人物の不確かな記憶として捉える余地を生み出している。■ウィルソンの批判がノーランの表現について見落としているもの映画は「時間、記憶、歴史、戦争」について説得力のあることを何も語っていないというウィルソンの批判に対し、シェイの枠組みは別の見方を提示する。8月上旬にThe Atlanticへ寄稿した論説で、ウィルソンは映画を「感情的に空虚だ」と評した。ここで重要なのが、翻訳理論の文脈である。ウィルソンが2017年に発表した『オデッセイ』英訳は、同作の長い英語圏での受容史において、女性による初の英訳とされる。その翻訳では、一連の意図的な政治的選択が行われた。ホメロスの「ポリトロポス」を単に「狡猾な」「策略に富む」とするのではなく、「複雑な男について語ってほしい」と訳し、従来の男性翻訳者が弱めていた女性登場人物の主体性や、強制を伴う文脈を復元した。また、原文の行数と弱強五歩格を維持しながら、現代の読者にも理解しやすい構文を採用した。ウィルソンの翻訳は、詩が含む政治的な居心地の悪さを都合よく同化させず、言葉自体は読みやすくする「異化」の実践といえる。それによって、従来の翻訳が当然のものとして処理してきた問題を表面化させた。ノーランの映画は、構造上、これと同じ作業を行うことができない。映画は物語を圧縮し、視覚化し、スペクタクルとして提示する必要がある。3時間、製作費2億5000万ドル(約398億円)の大作映画で、文学的な精読が可能にするニュアンスをそのまま維持することは難しい。ウィルソンの翻訳は、一人の読者が集中して読み続けられる環境の中で、受動態の背後にある強制を浮かび上がらせ、古代ギリシャ語の一行に含まれる権力関係を可視化できる。しかし、大作映画による翻案では、同じことはできない。それはノーランの野心の不足ではなく、認識の実践としての翻訳と、身体で体験するスペクタクルとしての映画との間にある、埋めることのできない隔たりである。翻訳理論家ローレンス・ヴェヌティの「同化」と「異化」の枠組みが示すように、どのメディアも、それぞれ固有の方法で対象を受け手になじませる。ノーランはウィルソンの翻訳を主要な着想源として挙げながら、その知見を映画という異なる媒体へ移し替えようとした。両者の対立は、同じ作品に向き合いながら、翻訳と映画が異なる役割を担っていることを示している。ウィルソンをめぐる論争が浮かび上がらせる、より大きな問題は、正典とされる作品を大衆に伝える際、誰の解釈が権威を持つのかという点だ。ウィルソンの2017年版英訳は最終的に100万部以上を売り上げ、コロンビア大学のコア・カリキュラムにも採用された。一方、ノーランの映画は、すでに11億ドル以上のチケット売上に相当する観客に見られている。数千万人にとって、この映画が『オデッセイ』との最初で唯一の出会いになる可能性がある。正典の翻訳者が、自らが復元しようとした要素を理由に、生涯で最も影響力を持つ可能性のある大衆向け翻案を公然と拒絶するとき、その対立は著名人同士の衝突ではなくなる。誰の解釈が、3000年前の作品を大衆の記憶に残る形へと作り替えるのかという問題になる。■興行収入の持続力を心理的共感から考えるIMAXの数字の陰に隠れがちな別の記録が、その成功を考える手掛かりになる。『オデッセイ』の北米における公開第2週末の興行収入は、前週比で27%しか減少しなかった。公開初週末に1億ドル以上を記録した映画としては史上最小の下落率で、『ウィキッド:パート1』と『トップガン マーヴェリック』という従来の記録保持作品をわずかに上回った。この規模の製作費を投じた大作映画は通常、第2週末に50%以上落ち込む。この違いを上映フォーマットだけで説明することは難しい。IMAXとプレミアム・ラージフォーマットは、利用可能なスクリーンの約1%にすぎなかった一方、北米の公開初週末興行収入の58%を占めた。大画面や高品質な上映環境が観客を呼び込んだことは明らかだが、その後の持続力には、作品への評価や口コミも作用したと考えられる。シェイの枠組みを援用すれば、その口コミを生んだ理由の一つが見えてくる。罪悪感、不完全さ、称賛されることより本当の自分を理解してほしいという欲求に触れる物語は、視覚的な驚きだけでなく、登場人物の経験に自分自身を重ねる機会を観客に与える。観客がそこに見いだすのは、必ずしも戦争体験そのものではない。過去の決断への後悔、家族に本当の自分を知られることへの恐れ、失敗した後に元の生活へ戻ろうとする困難な